名古屋高等裁判所金沢支部 昭和57年(う)23号 判決
所論は要するに、原判示第四の事実に関し、原判示河村英雄が被告人の欺罔行為によつて錯誤に陥り、よつて原判示内装工事を完成したものとは認められないから、被告人の所為は詐欺未遂罪を構成するのに過ぎないのに、これを詐欺既遂罪に問擬した原判決は事実を誤認したもので、右事実誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
所論にかんがみ、記録を調査して検討するに、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、被告人は将来の生活の当ても全くないままに妻(但し当時はまだ内妻)敬子と共に金沢市内の旅館に止宿していた原判示日時ころ自分が過去の犯罪歴までも率直に打ち明けて話す誠実な人物であるかのように装い、これを信用していた原判示河村を恰かも資金の裏付けは確実にあるように欺いて金沢市の繁華街で下着店を経営したいなど申し向け、原判示サンジエローム竪町店舗の改装工事も近い将来確実に発注するとの含みの下に原判示グリーンコーポ高山三〇七号室の内装工事を完工期日を限つて依頼し、併せて家庭用電気製品、家具類の搬入方を代金は確実に支払うとて要求し、他方同室に関しては未だ権利金の支払もしてなく賃貸借契約は成立していなかつたのに近日中必らず賃借するとの前提で室内改装を急ぐからとて同室鍵をその管理人である不動産業者から借り受けて、これを工事施行のため河村英雄に交付したもので、河村は初ての取引相手でもあり多少の警戒心はもつて電気製品、家具類の搬入は現金と引換にして欲しいと拒否したものの、同室内装工事は期限をきつたことでもあり、サンジエローム竪町に店舗を出す者がまさかに右グリーンコーポ高山三〇七号室内装工事代金を支払わないことはあるまいと被告人の嘘を信じて錯誤に陥り、右錯誤によつて原判示内装工事を完工し、完工後被告人から工事施工のため預り保管していた同室鍵を被告人に返還しようとしたが、そのころ一時被告人が所在不明となり、工事代金支払につき不安を感じた右河村は被告人の支払能力について調査し、三島の親戚から財産を受け取る話など被告人の述べるところは悉く虚構であつてその支払能力は皆無であることを確認し得て、詐欺にかかつて工事を完成させてしまつたことを悔んだが、部屋に備え付けてしまつたカーペツト、壁面クロス等の物品はこれらを部屋から剥離して持ち帰つてみても最早商品価値を回復するに由もなく、しかもその際備え付けをした部屋を多少とも毀損せざるを得ないため已むを得ず断念し、昭和五二年一一月二一日か二二日ころ被告人から工事施工のため預り保管していた同室鍵を返還し、これにより右改装工事の利益の支配を被告人に移転したとの諸事実を認定することができる(原審証人河村英雄供述中には完工後被告人と共に工事現場を見に行き、工事利益を引き渡したかのように述べる部分があるが、同人の他供述部分及び被告人の原審供述と比照して信用できない。)。
以上の事実によればグリーンコーポ高山三〇七号室鍵の河村への交付は注文した工事の現実の施工を指示・依頼していること以外の何物をも意味するものではなく、被告人の原判示欺罔行為により原判示河村が錯誤に陥り、その結果原判示内装工事を完工したものであることは明らかである。
ところでおよそ詐欺罪が既遂に達するためには犯人の欺罔行為により被害者が錯誤に陥り、右錯誤に基づく処分行為をし、これにより犯人が財物を騙取し、または不法の利益を得たことまでを必要とするのであり、右騙取または不法の利益を得るというのは財物または利益につきそれまでの被害者の支配を排除してその支配を犯人(または第三者)に移転せしめることを意味するものと解するのが相当であつて、これを本件についてみるに被害者河村は工事完工後未だ被告人から預り受けたグリーンコーポ高山三〇七号室の鍵を返還せず、従つて一旦備え付けたカーペツトや壁面クロスなども撒去しようと思えば容易に可能である間に、換言すれば右工事用物品及び工事利益についての支配を未だ喪失しない間に被告人の詐欺行為に気付き、その段階においては被告人としても右鍵が河村の手中にあつた関係で同室内に入室して工事物件を自由に支配することはできず、従つて右内装工事物件及び利益に対する支配の移転を受けていなかつたのであり、鍵の返還による右支配の移転自体は河村の錯誤によつてでなく、事情の実態を直視し、被告人の責任追及は司直の手に委ねる以外ないと諦めた右河村の行為によつてなされたものであるから、被告人の所為は未だ詐欺未遂罪を構成するにとどまるのに、前示工事完了の事実から直ちにこれを詐欺既遂罪に該当するとした原判決は事実を誤認したか、法令の解釈適用を誤つたかしたものというほかない。
しかしながら詐欺の未遂罪と雖も刑法二五〇条により結局は詐欺の既遂罪と同じ刑法二四六条によつて科刑されるものであるのみならず、本件は被害者河村としては被告人の注文どおりの改装工事を期限に完工してこれを引き渡すばかりにし、犯罪が既遂になつた場合と全く同じ損害を蒙り、右完工した内装工事利益の被告人への移転も前認定のとおりの已むを得ない事情下で全く仕方なく行われたに過ぎないものであつてみれば、本件は未遂とはいつてもその犯情において既遂の場合とほとんど選ぶところがなく、刑法四三条前段による裁量的未遂減軽の可否について検討をしてみる余地など考えられない案件なのであり、しかも原判決は原判示第四の罪と他の原判示各罪とを刑法四五条前段の併合罪としてこれらに一個の懲役刑を科したものであるから原判決のこの点に関する事実誤認、または法令の解釈適用の誤りは判決に影響を及ぼさない。論旨は理由がない。